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第6話 泡沫の幸福

作者: 酔夫人
last update 公開日: 2026-05-22 11:00:11

至近距離にラーシュの顔があった。

長い睫毛。

白い肌。

冷たいほど整った美貌。

けれど藍色の瞳だけは熱を帯びている。

その視線に捕らえられた瞬間、サラリアの身体を甘い痺れが駆け抜けた。

心臓がうるさい。

息が苦しい。

身体の奥が熱い。

自分の身体ではないみたいだった。

「な……なに……?」

ようやく絞り出した声は震えていた。

逃げたい。

怖い。

そう思うのに、目だけは逸らせない。

ラーシュの指先が頬へ触れる。

驚くほど優しい。

壊れ物を扱うような手つきだった。

けれど、その瞳の奥には別のものがあった。

強烈な執着。

欲望。

獲物を見つけた獣のような熱。

サラリアは本能的に理解する。

この男は自分を逃がさない。

そう思った。

不思議と恐怖はなかった。

むしろ胸が甘く疼いた。

「驚くことはない」

低い声が耳元で響く。

「俺の発情に反応しているだけだ」

発情。

聞き慣れない言葉だった。

「恥ずかしがる必要はない」

ラーシュの声はどこまでも甘い。

「その感覚に身を委ねればいい」

そして。

まるで愛を囁くように言った。

「愛しているよ、俺の番」

番。

知らない言葉だった。

なのに。

その言葉が胸の奥へ真っ直ぐ落ちていく。

「つが……い……?」

掠れた声で繰り返した瞬間。

ラーシュの顔がさらに近づいた。

鼻先が触れるほどの距離。

花の香りが濃くなる。

思考が溶けていく。

.

混乱していた。

本当なら確認しなければならないことがたくさんある。

なぜ自分なのか。

番とは何なのか。

なぜ竜王がここにいるのか。

けれど考えられない。

ラーシュの声が。

視線が。

触れる指先が。

少しずつ理性を奪っていく。

物心ついた頃から、サラリアは孤独だった。

誰も彼女自身を見なかった。

見ていたのは金色の髪だけ。

神の化身。

金色姫。

幸運の象徴。

そんな呼び名ばかりだった。

けれどラーシュは違う。

初めて会ったはずなのに。

ずっと探していたものを見つけたような顔をする。

まるでサラリアだけを見ている。

「サラリア」

名前を呼ばれる。

ただそれだけで胸が苦しくなる。

宝物を呼ぶみたいな声音だった。

誰かに名前を呼ばれて嬉しいと思ったのは初めてだった。

胸の奥に積もっていた何かが崩れていく。

満たされる。

温かい。

幸せだった。

知らなかった感情だった。

唇が重なる。

優しい口づけだった。

けれど頭が真っ白になった。

震えるサラリアを落ち着かせるように、ラーシュは何度も髪を撫でた。

額へ。

頬へ。

瞼へ。

優しく口づけが降る。

「大丈夫だ」

その囁きに導かれるように、サラリアは目を閉じた。

夢みたいだった。

塔に閉じ込められていたはずなのに。

誰からも必要とされなかったはずなのに。

今だけは違う。

求められている。

必要とされている。

愛されている。

そんな錯覚に溺れていく。

ラーシュは何度もサラリアの名前を呼んだ。

飢えた獣のように。

けれど壊さないように。

大切なものを抱き締めるように。

そしてサラリアもまた。

驚くほど自然にラーシュを求めていた。

誰にも期待しなかった人生だった。

何も望まないように生きてきた。

なのに。

たった一夜で。

たった一人の男に。

こんなにも心を奪われてしまった。

◇◇◇

目を覚ました時。

サラリアは知らない部屋のベッドにいた。

真っ白な天蓋。

柔らかな羽毛の寝具。

窓から吹き込む風。

そして。

目の前に広がる蒼い世界。

サラリアは息を呑んだ。

巨大な窓の向こう。

空に浮かぶ島々。

その間を悠然と飛ぶ竜たち。

陽光を浴びて輝く鱗。

雲を裂く翼。

まるで神話の世界だった。

そこはドラコニア。

竜王ラーシュの住む天空の王国。

そして。

後にサラリアが知ることになる。

この浮島は特別な場所だと。

竜王の番だけが暮らす宮殿。

誰にも邪魔されない世界。

ラーシュが自分だけのために用意した檻だった。

その時のサラリアはまだ知らない。

この幸福な日々が。

泡沫の幸せでしかなかったことを。

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